道具
世の中に完全なもの、完璧なものはほぼあり得ないだろう。ましてや人間が作ったものならば、常に進化を求め、完璧なものを目指してはいるのだろうが、なかなかそうはいかない。また、果たして完璧なものを手に入れたとしても我々はそれで満足できるのだろうか?これは完璧だと思っても、また更にその先の進化を求め続けるのではなかろうか?果たして「完璧」とはなんだろう?という疑問さえ起ってくる。合理性を追求するのは良いことだと思うが、それは自ら使う道具の長所短所を熟知し、長所はできる限り活用し、短所は自分の手、技で補う、そこでまた自分の技が磨かれていくものだろうと思う。これは人間関係にも相通じる。人間こそ完璧な人間なんていないだろう。神様は、ま、神様という存在があるとすればだが、人間を完璧なものとして作っていないだろう。完璧なものは全知全能である神のみだろうから。写真家としてカメラとレンズが必要だが、これまで完璧だというものに出会ったことはない。例えば、1950年代にアメリカで自動露出が開発され「EE,Electoric Eye」として実用化された。それから間もなく、オリンパスがシャッター速度優先の自動露出カメラを発表した。日本のカメラ製造業界の開発力の進歩は目覚ましく1977年にはミノルタから絞り優先AEとシャッター速度優先AEを兼ね備えた「MD」が発売され、翌年にキャノンが「A-1」を発売。私が1977年の夏、初めてイタリアとフランスの旅をした時には父から借りたCanon F1を持参したが、その後、自分で買った最初のカメラがCanon A-1だった。その頃、コニカから「ジャスピンコニカ」というオートフォーカスのC35AFを発売、ヤシカAF,ミノルタのハイマチックAF、一世を風靡したキャノンの「オートボーイ」が誕生、写真家の浅井慎平さんがオートボーイだけで撮影したハワイの写真の展覧会を見に行ったこともあった。世界初のオートフォーカス一眼レフはリコーの「XR6]とAFリケノン50mmF2のセットだそうだが、私は知らなかった。というのも、その頃から何でも自動でカメラまかせで”きれいに写せる”ことに疑問があったからで、ピントくらい自分の眼と意志で選択して合わせたいという気持ちだったからだ。ライカ用の古いレンズで露出やシャッター速度、ピントもすべてマニュアルで撮影してみると、改めて道具を使いこなしているという満足感があり写真がより楽しくなる。だから、全自動の一眼レフを使っている人も、たまにはすべてマニュアルにして撮影を楽しんでみることをお勧めする。写真の講座を始めて25年余になるた、近年はカメラを買ったときに付属されている使い方の説明書すら読まずにいる人も少なくないが、せめて、露出、シャッター速度、絞りの3つの基本くらいは説明書でも学べるからぜひ読んでほしい。カメラの構造はいたって単純だし、写真の歴史が始まって200年にも満たない。人間の眼に代わるレンズ、見えたものを写し記録するフイルム、現在はデジタルの受像体と電子的記録機構になっているが、これだけの構造だ。大事なのは日々、見ているものとの向き合い方、自分の心の在り方だろう。写真はフットワークといわれるが、カメラを持って出かければ、何かしら出会いや発見があるはず。肝心なのはそれらを見逃さない「気配り」で、更に、カメラの長所短所を応用し、イメージに近いものが撮れる技術を磨くこと。さて、そろそろ、カメラを持って出かけようか。
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